As you like it

札幌学院大の臨床心理研究科10周年・心理臨床センター開設15周年記念講演会が今日あって、三連休の中日だが、夫が仕事なので私はヒマだということに、おととい気付いた。で、急きょ知りあいの院生に尋ねると、当日受け付けがあるいという。これ幸いと、友人を誘って聞いてきた。なぜかというとですね、講師のお一人が、北山修氏だったからです。もう一人は前田重治さんという方。この方の「芸論」も世阿弥や禅の話など出てきて、難しいけど興味深かった。


しばらく前に、北山氏が一般向けには「きたやまおさむ」で本を書いており、それが面白いらしいというのは、バンド仲間から聞いていたのだけど、「ふーん」という感じで聞いていたのだけど、ミーハ―心も手伝って、go!となった次第。ミーハ―プラス知的好奇心というやつだ。


解読できるうちに、書くだけ書こう。差支えないと思われる部分だけ。感想は後日に書ける・・・かな? どうだろう。話それるけど、ほんとのほんとは、夫と旅行に行けるなら、北山さんよりそっちなんだけどね。なんたって夫が仕事じゃ仕方ないし、夜勤生活が終わらないと、まあ、無理かな。旅行に行かないうちに、もし乳がんが悪化したらどうするのよ?とたまには、思うのだけど。


メモ

演題は、「劇的な精神分析」 ちなみに、劇的に変化するという意味の、劇的ではありませんでした。劇のような、の意。劇的なって、どんなの?と読者はそう思って本を読む(同名の著書がある)と、あれ?と色々な意味で、期待を裏切るのだそうだ。釣って、落とす?みたいな?

パーソナルコミュニケーションと、マスコミュニケーション。北山さんの言うパーソナルコミュニケーションとは、眼の前の人との、一回きりの、取り返しのつかない、二度とないコミュニケーション。眼の前の人にメッセージを発する。

劇的観点とは  人生を劇のように見て、その人生を読み取る視点。今、時代は劇的観点で動いている部分が多いのではないかとのこと。劇的観点を要請される社会。

読み取ることで、自分の人生が豊かになる。読み取ることで書きなおすことができる、考え直すことができる。考え直して、例えば
深入りすることを避ける、など。人間は無意識に相手役を変えながら、同じ役割をしてしまう。どういう人生を反復しているのか気付かないと、人生を変えられない。読み取る営みこそ治療(老人の回想法などは治療的と言っていた)。   ふうん、このあたりは、しろうとにはわかりないなあ。あるかないかわからない無意識の話だ・・・。


シェイクスピアの『お気に召すまま』から  「人生は神の前で演じられる喜劇である」 喜劇ですよ、喜劇。確かに、悲劇と喜劇は背中合わせの部分もある。私の乳がんなども、悲喜劇と言えないこともない。

メモの続き。   浮世という言葉がある。人間って、どこか人前に出た途端、うそっぱちな、どこか非本質的なことが世の中では展開していて、本質的なことは、なかなか言えない。

人生そのものが劇であるという視点は古くからある。日本では、演歌で表現?村田英夫とか。

人生演劇説  人生をハッピーエンドで終わらせるなら、ハッピーエンドの小説を書かねならない(反対の意味で太宰治の例を出し
ながら)


ここにいる自分だけが本当の自分と思うと、本音を抑圧・分離・かい離

パンのために生きる しかし本音はこうこうこうである。日本人は虚と実を混同することで楽しむ?
人生が演劇なら、治療は楽屋。

眠くなりましたので、また明日。