「自立とは権利」なのか〜、なるほど


昨日今日と社会的引きこもり支援者全国実践交流会が北大を会場に行われていた。たまたま親の会の代表を今しているということで、私も随分前にご案内をいただいていたのだけど、2日間のうち自分が参加できそうなプログラムは初日だけだったので、迷った末、私は参加を見送った。だって3、500円ですものね、と主婦感覚が頭をもたげたのだ。2日間ならいざ知らず、2日目のアセスメントとか、単なる親には関係ないものね。宮本美智子さんの講演はとても聞きたかったのだけど、またいつか機会があるだろう。


この交流会は一般の親向けではなかったのだが、その代わりに、交流会終了後の午後に、一般の保護者向けのセミナーが用意されていたのは、なかなか主催者側の方々、気が利いておられると思ったことだった。参加費は無料。無料はやはり若者などには参加しやすいので、有り難いことだと思う。もちろん主婦感覚からしても、有り難い。ということで、同じく案内をいただいていたのでこちらに参加しました。しかも後方の席が空いていなくて、真正面に座って。


基調講演のテーマは「今、学校から社会へ出るということ」。話者は、NPO法人京都オレンジの会の山田孝明氏と、NPO法人文化学習共同ネットワーク)の藤井智氏。また、後半のパネルディスカッションでは、北海道若者サポートステーションの穴沢義春氏、同松本沙耶香氏(定時制高校でキャリアカウンセラーも務める)のお話も伺った。


とここまで書いたところで、また後で書きます。今からテレビをみなくっちゃ。そうそう、タイトルの「自立とは権利」は、藤井さんがお話の冒頭で引用された宮本美智子さんの言葉です。自立とは、ねばならない義務ではなく、権利なのね。子どもは誰でも自立する権利を持っている。その権利を保障するのは国であり社会だという意味だったと思う。ああああ、やっぱり私はメモしないとだめだわ、どんどん忘れていっちゃう。



続きです。


何しろメモを取らなかったので、記憶に自信がない。とりあえず、思いつくまま書こう。まずちょっと、あれ?と思ったことがあったという話を。初めぱっと御案内を読んだ時は、私はこのセミナーには参加するつもりではなかった。というのも、保護者向けセミナーとあるが、一番上に「高校生の保護者対象セミナー」と明記されていたので。しかしパネルディスカッションの項目には、「学校から社会への移行に関する現状と課題、親の役割について」とあったので、ここまで読んで、あ、やっぱり自分も行ってみようという気になった。


学校から社会への移行する若者は、高校生だけではなく、無論専門学校生や大学生も含まれるからだ。うちにも就職浪人と、春からしばらくの間確信犯ニートが1人ずついるので^^(1人は家を出て一人暮らしを始めたので、正確には家には1人だけど)、一親としても関心があるテーマだものね。重箱の隅をつつくみたいで申し訳ないけれど、高校生の保護者対象という言葉で、「あ、私は関係ないわ」と思った不登校やひきこもりの子どもを持つ親たちもいたのではないか、と想像する。基調講演の講師のプロフィ―ルを見てもわかるように、話の内容はむしろ、不登校や引きこもりの子どもを持つ親御さんたちにとって大変関心のあるものだったと思う。

また、「学校から社会へ」というタイトルも、なかなか考えさせられるものがあった。これだけでも色々考えることができる。学校は社会ではないという意味にも取れるし、しかし子どもは家庭から出て始めて出会う他者との関わる場所である学校は(まあ保育園や幼稚園もありますが)、やはり小さな社会なのではないか、とか。この場合の社会は、就労していく立場の人として出て行く場という意味なのだろうけれど。


藤井さんだったと思うが(違ってたらごめんなさい)、今の時代は学校から社会への移行は、命懸けの飛躍になっている、と言われていたと思う。また、山田さんのお話だったと思うが、もうとにかく大学まで行けばその後スルスルと就労という時代は終った、また今楽しくアルバイトをしているとしても、それは偶然良いオーナー、親切なオーナーに恵まれているだけかもしれない。そして、そのような親切なオーナーは今とても少なくなっているのだ。つまり、社会の受け入れ環境が昔ほど楽じゃない。となると、今若者に求められるのは、必然を作る力だと言っていた。偶然と必然。例として、例えば中学で不登校後に、やっぱり高校に行きたいということで高校に行くとする。そこで、もしクラスメートが声をかけてきて、それがきっかけに友達になれたら、それは偶然の力だ。けれどももし、一週間たっても誰も声をかけてこなかったら、その子は学校に行く意味を失ってしまうかもしれない。このような状況の時に、自分から声をかけられるようにする。これが必然を作る力だということ。


今まで私は偶然はとても大事と思ってきたけれど、必然を作る力という言葉には、納得した。また御二人の話を聞いて、昔は内気な子はそのままでも、回りに声をかけてくれる友達環境や、近所に声をかけ気にとめてくれるおじさんおばさんがいたので大丈夫だったのが、今は環境がそうじゃないので、自分から表現して行くことが求められているということだと理解した。ただ、内気や寡黙がいけないのではないと思う。内気や寡黙の子でも、十分にコミュニケーションができる「場」がないことが問題なんだね。 御二人の活動のベースにあるのは、そのような「場」の提供なのだと思った。


話が飛ぶけれど、思い出したので忘れないうちに。初めて聞いた表現があったので。これは、親としてなるほどなあと思うと同時に、親というものは辛いなとも感じた。山田さんのお話に、親は子どもの悲しみを奪ってはいけない、ひょっとしたら奪っていることがあるのではないだろうか、とあるエピソードを挙げて話してくれた。不登校や引きこもりは、結局子ども本人が向き合うテーマだと思うが、それを親が肩代わりしてはいけないのだというメッセージと、私は理解した。


また、御二人のお話に共通していたのは、カタチだけ学校へ行ってカタチだけ就職しても、そこに子どもたちがクリアするべき課題が残されたままだと、結局社会への移行がうまくいかないのでは、と思った。今回あまり家庭から社会へ、という話はなかったが、家庭も含め、学校と社会、考えることがたくさんありそうだ。