不登校から10年くらいたって思うことは、不登校自体が困ったことでなく、教育を受ける権利と、成長をどうやって保障していくかなんだってこと


ちゃらんぽらんでまとまらないけど、書きたいので。

・この前子どもが、自分の中学時代の後半の不登校を振り返り、学校に行かなかった(初めは行けなくなって)期間は、自分にとっては立ち止まって考える時間だったと言っていた。完全に行かなかったのではなく、ある程度休んだ後は、たまに行く!?から始まって、中3の三学期くらいになって、次の進路のことを子どもなりに考えて「行った方が得策である」と判断したんだって。そういえば、そうだったかしら。昔のことで忘れかけている。最初は緊急避難的不登校だったが、わが家ではすでに数年前に上の子で経験していたので、初めよりはベターな環境を提供できたのか、途中からは確信犯不登校へと変化したように思う。上の子の経験から、行かなくてもとりあえず中学は大丈夫ということを本人が知っていたので、余裕があったのかもしれない。実際には中学の五月雨登校は、とっても大変だったはずだけど、時と共にだんだん細部は忘れて来て、余裕があったようなストーリーに、子どもの中ではなっているのかもしれないけど、私はそれで良いように思う。


・その子の性格(良い悪いではない)や、もちろんわが家の育て方(良い悪いではない^^;)、中学校自体の問題、子どもの疲労など、様々なことが重なり合って不登校という状態になるのであって、誰が悪いとか、こうだったからこうだ、ということじゃない―もっとも、日本の中学校教育は問題だらけだが。ずぶとい子もいれば、神経の太い子もいて、要領の良い子もいれば、そうじゃない子もいる。学校の理解がなければ、発達障害の子どもたちにとって学校は生きずらいだろう。


不登校が困ったことになってしまうのは、そういう状態に子どもがなった時、初めてなら誰でもどうして良いかわからず、適切な対応を回りの大人が取れないために、ますます子どもを追い詰めるため、事態がもっと混乱するからだと思う。


自分や友人の場合もそうだけど、複数の子どもが不登校経験をした親が、1人目の時より2人目の方が多少とも楽なのは、一度経験したから、対応が前よりは上手くなるからかな。この子が不登校するからには、余程疲れているからだとか、何かあったに違いない、とか、あるいは子どものウツとか、何か困ったことのサインではないか、とか冷静に考える余裕も、多少は生まれるのだと思う。何より、不登校、別に大丈夫、なんとかなる、と思えたことは、大きい。



混乱と疲労から休息をへて回復し、時を経て、自分のことがわかってきて、自分で物事を決められるところまで子どもが成長すると、学校に行く行かないは、そんなに親が心配しなくても、大丈夫な気がするんだけどね。子どもが自分の今後をどうしようかと心配するというか、考えるようになるから。自分の人生だから。子ども自身が、子どもの人生を子どものものにできたら、不登校経験は、困ったことではなく、その期間は必要な時間だったと思えるのではないだろうか。