「治る」は横に置いといて


数日前、問題解決療法第?回目。

療法という呼び方が、別に心身の具合が悪くて行ってるわけじゃなくて、予防で行ってるようなものなので(あ!乳がんだけど忘れてた! 爆)、ちと抵抗あるけど、でも結局の所、物事の名前なんて、どうでもいいかなとも思う。どう呼ぼうが、本質は同じだもの。それでも、積極的メンタルケアと勝手に呼んでみる。ただ、初めはそれが動機だったけれど、今はちょっと違うかな。毎回新しい発見があるから行っているのかもしれない。知らないことを学ぶのは、楽しいし面白い。目的のための手段そのものが楽しいというのは、ラッキーなことだ。メンタルケアを受けた方が、延命できると思って行き始めたけれど、今は学ぶことそのものが面白いの。


今回印象に残ったことは、「治る」を目的にしないということ。例えばがんを治すことを目的に掲げるとする。でも、治るって行く様を実感するのはけっこう難しい(第一、治らないかもしれないし〜)。だからそれは横に置いておいて、具体的に「〜する」ということを積み重ねて行く、と言う話。そして私は今までもそのようにやって来たのではないか、と言われた。まあ、嬉しいこと。調子に乗ってしゃべってしまった。そうなんですよ、だから今月企画を二つ抱えているので、それが終るまでは絶対元気でいようとか、新型にはかからないようにしよう、って決めてるんです。おまけに、来春の企画まで、友人と企んでます、と。企画を食べながら生きて行くのね、私って(笑)。

「治る」は目的じゃなてく、気付いたら治ってた、ってことだろう。気付いたら、○年生きていた、と言う感じ。

病ではないけれど、不登校についても同じことが言える気がする。子どもに登校の大切さを説いたり説得して登校を目的にするのではなく、学校に行けない時はそのことを「横に置き」、学校復帰という言葉も横に置き、登校不登校を近くから見つめすぎない方が、たぶん良いのだと思う。皆(親、教師、子ども)で、深刻に見つめると、視野が狭くなるかもしれないもの。ねえ。


絡まった毛糸玉をほぐそうとして、一箇所を引っ張るともっときつく絡まるように、「問題」と思う部分をあせって解決しようとすると、余計こじれたりすることもある。だから、問題そのものを何とかしようとするのではなく、それ以外のところで楽しみをみつけたりしていると、相対的に「大変だ〜」と思う時間が減るというのも、今の先生から習ったことだった。その通り、と実感してます。