笑う門に福来る年にしたい

明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。今年も、きっと相変わらず、あーだこーだ言いながら、色々ちょろちょろと活動していく、そんないつもの年になるといいなあと思っています。

嬉しいことに、がん患者と言われる身になってから5度目のお正月を、我が家で元気に迎えることができました。毎年書いてる気もするけど(笑)、やっぱり言いたい。最初の病院で告げられたのは、遠隔転移がある乳がんで、ステージ4。がんの状態としては、末期がんにあたります。

末期がんと言っても乳がんの場合そしてがんの「かおつき」が良ければ、進行は非常にゆっくりな場合もあると今では私も知っています。けれども、当時はマスコミで見聞きするイメージに影響され、私=末期がん=深刻=5年後なんて、生きていてもかなり弱っているのではと、悲観的な予想を抱いていました。5年生存率が25%?とか、10年なら3パーセント、とか何かで見ましたしね。

ところが、フタを開けてみれば最初の悲観的な予想を裏切って、術後4年4か月の今の時点でもマダ、全くと言って良い程元気です。抗がん剤を二種類とホルモン剤を併用していても、服用ごとの抗がん剤の量が通常より少ないため―細く長くなので総量では標準治療より総量としては多くなるけれど―副作用がない。だから、元気なのです。精神力や根性とかで元気にしているのではない。体調が良いから元気。体調が良いのは、副作用がないから、そして、がん細胞の総量が、自覚症状が出るほどの量にはまだ到達していない、ということだと思っています。がんになるまで知らなかったけれど、がんがあるからと言って、すぐに自覚症状があるわけじゃないのですよね。


副作用もなく自覚症状もないとなると、残された課題は、自分の中に巻き起こって来る不安を、一体どうすればいいの?ということでした。この不安は全くなくなりはしないけど、それでも軽減することは可能で、たぶん学習によって少しだけおりこうさんになって、毎日を楽しく暮らしていくことはできるのだと実感しています。そして、私のようながんであってもそれなりに心身を健康な状態に保つことは可能だと知りました。今後のことは、わかりません。すぐ悪くなって、あっけなく逝くかもしれないし、かつて言われたように間違って20年、いや後15年か(笑)、生きるかもしれません。それはわからないけど、わかっているのは、これまでのところ、がんから来る自覚症状や薬の副作用によって、QOLが下がることはなかったということです。

不安を軽減するための知恵は、複数の方から学びました。あるいは、書物から。2009年に再発・転移した際は、やはり打撃が大きかったのですが、問題解決療法と出会い月1で半年ほど、カウンセリングを受けました。これは私にはとても合っていたと思います。他にも色々な問題が押しよせていた時でしたが、問題を細かく全部書き出して行って、まずはそれ相談者が整理してくれるところから始まりましたが、その時は本当に、ほっとしました。一緒に考えてくれる、荷物を分担してもらえる、言われてみれば当たり前だけどしろうとでは思いつかない、小さな知恵などを教えてもらって、闘病するのだと意気込んで山登りのための重い荷物を勝手に、さらに重くしていたのが、軽くなった気がしたものです。


山登りの荷物が軽くなって来た、と今では感じています。ちなみに、「山登りの荷物を軽くする」話は、えーと誰だっけな、いつもこの人の名前が覚えられない、子どものための哲学を書いている人。後で調べます。あ、わかりました。『子どものための哲学対話』 永井 均 (著),イラスト 内田 かずひろ


他にも、主治医から、楽天的な人の方が予後が良いようだと教わったこと。そんなこと言ってもねえと思ったりもしたが、精神科医をしている知人から、「悲観論は自己実現性予言の性質」を持っていると教わり、なんとなく納得(爆)。最近それは、中井久夫の『家族の深淵』に原文が載っていると聞き、読みました。ちょっと難しいのですが、なるほどねえ、です。

以下、引用します。

自己実現性予言の持つ陥穽(落とし穴ですよね)とは、ある事態を予言することによってその事態の実現性を高めているのに、そのことに気付かないで、かえって、予言の正しさが裏付けられたと思うことである。特に疾患の場合には悲観論をとるほうが治療者の地位は揺るがず、周囲も納得しやすい。当人さえも、しばさば己の病を軽くみなされることを脅威と感じる。たとえば、十分の介護が得られず、社会的義務免除が正当化されないことは時に病者にとって脅威である。したがって、悲観論は一般に容易に反駁されない構造を持っている。すなわち、これ自体が一つの陥穽である。これに対して楽観論というものは、非常に反駁されやすいものである。研究者あるいは治療者としては、楽観論を唱えて傷つき嘲笑されるのは耐え難いことである。しかし治療者の威信が傷つく半面、悲観論のように悪循環に陥る危心配はない。楽観論に自己実現性預言の性格があれば、これは良性の自己実現性であり、もっけのさいわいである。・・ひらたくいえば「だめでもともと」ということである。・・・悲観論が強固な場合は、無理にでも楽観論の立場を探ってみるのが良いと思う。無理にでもというのは、一般に悲観論のほうが、一つの必然として精密に理論化しやすいということがあるからである。(『家族の深淵p.134-135』)


それから不安と言えば、手のしびれの件では、症状があってもそれが気になっても、普段通りにやることはやる、ということで、不安を乗り越えました、というと大袈裟ですね。不安が減りました。これは、前にも書きましたがブログ『神経質礼賛』や、その著者四分休符さんの同名の本が、とても助けになりました。現時点では、しびれがあるけれど普段は忘れていて気にならなくて、これは副作用自体が減ったのか、それとも私が慣れてしまったのか、もはやどちらでもいいことです、という程度です。


最後に、そこそこ忙しいことも幸いしていると思います。忙しくて、がんのことにあれこれ心を煩わせる時間がない。特に今は介護のこともあるし、専業主婦コンプレックスがあって、せめて何か社会的な活動をしていたい、という思いが根底にあるので、色々活動しているうちに、その活動自体が楽しいし、けっこう忙しいという具合です。がん患者だなんてことを忘れて楽しく活動ができるなんて、なんて幸運なことだろうと思っています。

がんにならない方が良いに決まっている。でも、なったらなったで、がんからのプレゼントもあるというのは、本当だったなあ〜と感じています。

今年も笑って過ごそうっと。ノーマン・カズンズの笑いの治癒力信じて、ね。笑う門に福来る。楽観的に。そして、書くとやはり客観的になれるので、自分のためによい。だから、今年もがんの経過を記して行きます。